2002年8月29日木曜日

田端強君のこと

2002.8.29


田端強君のこと


歳をとるにつれ、古くからの友達が抜け落ちるように逝ってしまうことは悲しい。「長生きして良かったことは」と聞かれたさる高齢の財界人が「厭な奴が全部先に死んでしまったことだよ」と寂しそうに答えたという話を聞いたことがあるが、この世の中には厭な奴より良い奴のほうが数としては多いわけで、またたとえ厭な奴であってもその人との関わり合いとは自分の人生の確かな一部であったわけで、人は歳をとることにより必然的に悲しい思いを積み重ねざるをえない。特に小さいときからの友人を失うことはとてもつらい。田端強もそのひとりであった。

彼と知り合ったのは中学校の時だったと思う。机が前後して接していたので自ずと言葉を交わすようになったが、通学ルートが違うので最初は友達と言うほどでもなかった。当時の灘中生の通学経路は、3割が阪急岡本駅を利用、3割が国電の住吉駅、また3割が阪神の魚崎駅利用で、残る1割が阪神国道を走る国道電車と大ざっぱに分かれていて、学校から帰る途中で同じ電車を利用する者同士で寄り道したりして親しくなることが多かったのだが、彼と杉山は阪急組、僕は国道電車組だったのであまり顔を合わせることがなかったのだ。親しくなったのは高校になってから杉山和彦を介してのことだったと思う。三人でよく遊んだ。

田端は裕福な家庭の長男で父親の愛情をふんだんに受けて育っていた。夏の暑いときは当時は普通の人は見たこともなかったクーラーのある応接間で勉強させて貰っていたし、夏休みは勉強と称して涼しい山の上の六甲ホテルでひとりで過ごしていた。またお父さんが香港で買ってきたというローレックスを腕にして、家のセドリックを自由に乗り回していた(昔は16歳で運転免許が取れた)。そんな高校生はさすがの灘高にも少なく、地味な家庭に育った僕なんかにはものすごく格好良く見えた。畏敬さえ感じた。でも彼はそれをことさら自慢するでなく、また恥ずかしがるのでもなく、ごく自然に振る舞っていた。

彼と僕は京都大学に進学した。同級生は東京の大学に進む者が多くに行く、京都に行ったのは少数派だった。特に僕が入った経済学部には灘高出身者はひとりも居らず、寂しかったので彼の百万遍の下宿によく泊まりに行った。彼は勉強が厳しい工学部に入学したので「経済学部のぼんくらとは一緒に遊んでられない、じゃまするな」と時々追い返されたが、それでも彼の下宿の大きなベッドによく一緒に寝た。もちろん変な関係ではなく二人ともまだ子供だったのである。でも彼の方が成熟が確実に進んでいて、先輩としていろんなことを教えてくれた。酒の飲み方とか、服装の選び方とか、女性とのつきあい方とか。初めて女子大生とグループ・デイトをしたのも彼と一緒だった。体育会ヨット部に入部できたのも彼に付いていったからだ。受験勉強から解放されて彼を師としての京都での自由な生活は、本当に素晴らしく、数限りない楽しいことを一緒に経験した。

ところが、彼はもともとからだが丈夫じゃなく肝臓に問題を抱えていた。やがて彼の宿痾がぶり返すことになる。大学院に進む直前に彼は入院することとなった。一時は処方された強い薬の副作用で髪の毛が抜け落ちるということもあり悲惨だった。しかし、のちに田端夫人となる鈴恵嬢の献身的な愛情を受けて彼は再起する。

この間、深く考えることがあったのだろう。その時以来、彼はそれまでのどちらかといえばプレイボーイ的な生活とはきっぱり別れを告げ、徹底して真面目な生活をはじめた。長男であるにもかかわらず家業を継ぐことをやめ学者になる道を選ぶ。一転してそれまでの物質的なライフスタイルを、背伸びした格好が悪い贅沢として軽蔑するようになった。その変身ぶりにはみんな驚いた。

僕は大学を出て就職し、しばらくして海外に行ってしまったので、田端とだんだん縁遠くなった。海外から帰っても東京に住むことになり、彼とはなかなか会う機会もなかった。田端にしてみれば僕などはとっくの昔に卒業した軽薄な時代の遊び友達という分類に入っていたのかもしれない。彼が亡くなる前の数年間は年賀状も来なかった。あとで田端夫人に聞くと、晩年は体調が悪い状態が続き、健康に生活しているむかしの友達にどう近況を伝えていいか判らず、本人はとても辛そうだったとのことだった。

1991年8月、突然彼が亡くなったとの知らせを受けた。お葬式で彼の長男にお目にかかったが、彼と瓜二つだった。一度夫人と一緒に三人でゆっくりお話し出来ればと思ったが、その機会もないまま今に至っている。

僕も歳をとった。そのなかで田端強はいつまでも若く、人生で一番うきうきしていた時代の象徴として、僕の心に深く残っている。何でもかんでも彼のまねをした当時を懐かしく思い出す。最近、僕も今まで馬鹿のように熱中していた消費型のライフスタイルをうざく感じるようになり、それから距離を置くようになってきている。これは田端強が数十年前にすでに悟っていた境地に近いのかもしれない。彼はいつになっても僕のライフスタイルの先達なのだと思う。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年8月19日月曜日

夏のお便り


夏のお便り
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余丁町散人

今年は異常に暑い日が続くと思っていたら、今日は雨が降って急に気温が下がりました。秋にならないうちに急いで夏のお便りをいたします。

家内は6月、7月とフランスに帰っていました。家族でブルターニュの夏の家で過ごし、涼しくてたいへん快適だったそうです。この夏の家は家内の亡くなったお父さんが若い頃海沿いの農家を買ったもの。石造りの壁は厚さが1メートルはあろうという古い建物で浜には船もおけます。ヨーロッパの生活には、この石壁のような蓄積の厚みがあり、羨ましい限りです。

散人は東京に残って猫と庭の世話をしておりました。世話の甲斐があって、今年はモモがたくさん実をつけました。砂糖煮にして食べています。

モモが実をつけました

昼寝するピカチュウ

猫を飼っていると猫がだんだん主人に似てくるのか(主人が猫に似てくるのか)、うちのピカチュウは昼寝をするとき枕を使うようになりました。時々夢を見ているのか、寝ながら尻尾を振ったり猫キックをしたりします。朝も以前は早起きだったのですが最近は8時頃まで朝寝坊をします。

暁は昨年文学部フランス文学科を卒業しコンピュータ・グラフィックの専門学校で勉強していましたが、今年ようやくソフト会社にCGデザイナーとして就職が内定しました。来年の4月から社会人となります。若年層の就職がなかなか難しい状況下、ほっとしております。就職の作品選考用に暁が作ったCGをHPにアップしておきました。下のリンクです。

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新しいマック

散人のマックを新しい iMac に換えました。古い初代 iMac をだましだまし使ってきたものですが、HPを作るようになるととても旧型マックでは対応できないことが分かりました。OSが全く新しくなっており、驚きました。昔々、初代の 512k マックを買ったときの感動に似ています。新しいエクセルのデーターベース機能にも感動。文学作品の索引作りに挑戦しようかと考えています。現在荷風の参考書の整理とか、團伊玖磨の『パイプのけむり』全巻のインデックス作りを始めています。こんな事をしていますと時間は幾らあっても足りません。

景気がいつまでたっても良くならないのでいささか憂鬱です。北風の中で外套が飛ばされないように身を小さくする旅人のように、いつかは暖かい太陽がでてくるものと期待して、それまでは地味に行こうかと思っています。

2002年8月14日水曜日

「やっぱり」連発はやっぱり駄目

2002.8.14


JA全中の宮田勇新会長のテレビインタビューをNHKニュースで見ました。日本の農業の今後についていろいろ語っておられましたが、むしろ面白かったのは、その内容よりこの方のお話の仕方。お口癖なんでしょうが「やっぱり」という言葉を盛んにお使いになる。曰く「やっぱり」食べ物は安全が第一だし・・・、「やっぱり」環境保全に配慮しなければ・・・、「やっぱり」農業が心の安らぎをもたらすということも考えて・・・、「やっぱり」主食は自給でなければならないし・・・エトセトラ、エトセトラ。「やっぱり」を短い3分ぐらいの間に30回ぐらいはお使いになってました(6秒に一回ですかね、計算すると)。

この「やっぱり」が気になって、テレビを見ている間、お話しの方はそっちのけで、もしこれを外国語に通訳しろと言われたらどう訳せばいいのだと考えていました。強いて言えば英語の場合 after all なんでしょうが、今ひとつフィットしない。すくなくとも after all は3分間に30回も使う言葉ではない。どうもこの方はこの「やっぱり」に、英語の after all の前にあるべき縷々とした議論を排除して、いきなり村落共同体に生きる人間の本能みたいなものに訴えるキーワード的意味合いを持たせているようなのです。「みんなが建前は別にして本音で期待しているとおりに」というような感じ。JA内部ではこれが説得力を持つのでしょうが(だから会長になられたのでしょうが)アウトサイダーにはとてつもなく違和感がありました。

企業でも社会でも、この「やっぱり」がはびこると改革は出来ないように思います。「やっぱり」日本式経営の良さも考えないと・・・、「やっぱり」公共事業の社会的役割も重要であって・・・、「やっぱり」郵便局の果たしてきた役割を考えると・・・、「やっぱり」間接金融主体の従来方式の良さもあって・・・、「やっぱり」日本の国際的な責任を考えると・・・「やっぱり」受験教育制度にもそれなりのいいところもあるし・・・エトセトラ・エトセトラ。すべて既得権益の擁護のために手垢の付くほど頻繁に使われてきた言葉ではないでしょうか。

はなしを農業に戻しますが、農業とは人間の歴史はじまって以来、もっとも基本的な産業でありました。産業である以上、人は生きるか死ぬかの覚悟で、その時代の最先端の技術を活用し効率性を追求することで生産活動に励んできました。広大な北海道の牧場もヨーロッパの緑の農地も、すべて人間が必死になって原始林を切り開いて「環境を変化させながら」造ってきたものじゃないですか。農業は環境に貢献するから非効率性が許されると言うことでは決してないのです。

全国各地の農村の生活風景を紹介するNHKの「ひるどき日本列島」をみていると、日本の農村では、本当にみんなが一緒に仲良く楽しく「園芸農業」をしているなあと実感します。趣味でやるぶんには結構なのですが、日本の企業では当たり前の国際競争のなかで命がけで競争にうち勝つぞと言う気迫が感じられないように見えます。

「やっぱり」を連発していると、やっぱり駄目になります。


2002年8月6日火曜日

〔再録〕荷風とお金と物価の悲劇

「荷風塾」(永井荷風ファンクラブ)学校通信 No.6
             荷風とお金と物価の悲劇

2002.8.6 

むかしの小説などを読むとき、お金の単位に苦労することがよくあります。「○○円だ」と書いてあっても、それがどういう意味を持つのか、高いのか安いのかよくわからない。特に荷風の小説にはお金が頻繁に登場します。そこで明治・大正・昭和の各年代を通じて貨幣価値がどう変化したのかを調べ、それを荷風の年表に組みこんでみました。さらに、毎年、荷風が稼いだお金、使ったお金、結果として金融資産残高はどう推移したのかなども表計算ソフトを使い大胆にも推定してみました。その一部が下のグラフです。とても面白いことが分かりました。



推計方法について

当時の物価の推計ですが、卸売物価指数については日銀の戦前基準の長期統計があり信頼できそうです。消費者物価については明治まではさかのぼれませんが、足らない部分は醤油やお米の値段で代用させ一応の数字が作れます。これで当時の価格水準は推測できるわけですが、その価格が「当時の人々にとって」どういう風に実感されたかは、当時の賃金水準を考慮する必要があります。結局、消費者物価基準、卸売物価基準、賃金基準の三つの基準で「一円の値打ち」を計算いたしました。この三つの数字を参考にしながら当時の文章を読むと、ぐっとわかりやすくなるようです(自画自賛)。

荷風の金銭的な収支状況については断片的ではありますが、たくさんの数字が残されています。税務署による所得金額の認定とか、敗戦直後の財産税の計算とか、不動産の売買金額とか諸々の数字が日乗に書かれています。吉野俊彦氏が『断腸亭の経済学』という面白い本でそういう部分をたくさん抜き出して居られますので、活用させていただきました。それらの要所要所の数字を押さえて、それが実現するような年々のキャッシュフローを推計すればいいわけです。となるとエクセル表計算ソフトの出番です。段階的接近を繰り返し、なんとか矛盾がないところまでつじつまを合わせました。計算表(エクセルファイル)は公開フォルダーに入れてありますので興味のある方はダウンロードしてください。

これらの数字からいろんな事が言えると思いますが、私にとって印象的だったのは、荷風は大正年代の末から(円本ブームに乗じて)ほぼ右肩上がりに自分の金融資産を増やし続けたにもかかわらず、それが物価水準とか賃金水準といういわゆる外的尺度で測ると、きわめてドラスティックな上下変動を示していることです。上に示したグラフでもおわかりいただけますが、絶対金額では戦前ほぼ安定していた荷風の資産残高は、昭和の初めのデフレ状況下では大きく購買力を上げ、荷風はきわめてお金持ちになったように感じたと思われます。でも以後経済はインフレに転じ年々財産の(物価賃金比較での)減少が続き窮乏感が強まります。敗戦直後、戦時中に書きためていた作品を発表しふたたび巨額の現金を手に入れるのですが、預金封鎖とインフレでまたもや(物価賃金水準からみて)極端な貧乏になるという具合です。

これは個人ではコントロール出来ないまったくの外部環境によるもので、金融資産だけが頼りの老人荷風にとっては精神的にとても厳しいものがあったと思われます。4回にのぼる空襲による罹災以上に、戦前戦後の経済変動は荷風に大きなストレスを与えたと考えられるのです。その影響が書いた作品にも現れてきているように思います。

文学もエクセルを片手に読むと一段と楽しくなります。

(参)荷風経済年表抄(余丁町散人作成)